ピアノと本田武久さん
本田さんは闘病中でありながら、装飾前のピアノに”奇跡のピアノ”と名付け何度もチャリティーコンサートを行ってくださいました。当時の本田さんについて当プロジェクトの福田副代表が紹介します。
2009年3月、テノール歌手本田武久さんのコンサートが仙北市の樺細工伝承館で開かれた。
本田さんはこの年37歳。この街の高校出身で、東京芸術大学音楽学部声楽科テノール専攻に念願叶って29歳で入学した。卒業して間もなく、一千万人に数人という現代医学では治癒の難しい稀な癌が見つかった。病巣はすでに足から肺に転移しており、主治医からは「人生のまとめ」をするようにと言われていた。
その日の聴衆はそのことを知っていた。同級生や友人、兄弟、親類を始め、詰めかけた多くの人たちが本田さんの歌に耳をそばだてた。
やさしい愛のてのひらで 今日もわたしはうたおう
何も知らずに生きてきた わたしはもう迷わない
コンサート終盤、日本では若くして白血病で亡くなった歌手本田美奈子.さんがよく歌っていた「アメージング・グレイス」を歌った。
最前列横の車イス席では、本田さんのお母さんがハンカチを握りしめながらライトに浮かぶ息子の姿を静かに見上げていた。
アンコールの曲が終わると、満員の会場に鳴り止まぬ拍手が長く長く続いた。
「23曲一気に歌い切った!」
歌っている最中、本田さんには笑みはなかった。しかし、歌い終えると、やりきった人のみが醸すその笑みを見せた。花束を抱いて深く何度も礼をしてコンサートは終わった。
夜、主催したOtoを楽しむ会のメンバーと本田さん、ピアニストの鳥井俊之さん(秋田市出身)たちで「ごくろうさん会」が行われ、その日のコンサートの様子をひとしきり語り合った。
・・・いつか、近くの神代小学校で長く使われ、まもなく廃棄処分になるピアノの話しになった。
見た目はボロボロだが、流す音色は華やかで美しく、音楽好きな人たちでそのピアノを修復させようと募金活動が始まっていることを二人に伝えた。
さすがに歌の伴奏をしたピアニストは敏感だ。「弾いてみたい」と言った。
すると「私にも協力させて下さい」と本田さんが横から言った。
「えっ?」
癌の治療費がどれほど高額であるかを多くの人は知っている。治療中の収入も途絶える。今日のコンサートも経費以外はすべてその治療費の一部にと思って企画されたものだ。
「歌うことで役に立つなら」と本田さんはさらに言った。その真剣な眼差しは「せっかくですがお断りさせてください」という周りのやさしい言葉を遮った。
やがて半年後、本田さんによる「ピアノに樺細工を施すチャリティコンサート」が行われた。
会場に入りきれない不安を抱くほど多くの聴衆が集い、ピアノ修復のための募金活動が行われた。そして、その日、傷だらけのピアノを「奇跡のピアノ」と本田さんが名づけた。
奇跡が起きて欲しいという自分の境遇とピアノの境遇を重ね合わせた、とその場にいた皆は疑うことなくそう推察した。
本田さんによるチャリティコンサートはその後も行われ、ついに2010年3月、見事に桜の皮が張られ、生き生きとした斬新な姿で人々の前に蘇った。神代小学校で「奇跡のピアノお披露目コンサート」が行われ、子供達の前ですべからく本田さんがそのピアノの伴奏で歌ったのは言うまでもないことだった。
しかし、1年後、本田さんの病は病巣のある右足を切断させた。
それでも、角館交流センターや平福記念美術館で義足を装着し、体を支える杖を脇に置いて「奇跡のピアノ」の伴奏で歌った。
さらに1年後、口内への転移が見つかった。舌が変形し大きく膨らんだ。
それでも、言葉を丁寧に、大切に、一音一言噛みしめるようにドンパルや平福記念美術館で「奇跡のピアノ」とともにステージに立って歌った。
2012年11月28日。
「自分の人生のまとめは歌い続けることです」という言葉と「奇跡のピアノ」を残して・・・彼は永眠した。享年41歳。
目の前の「奇跡のピアノ」には、そんな本田さんの熱意と麗姿が十分すぎるほど詰まっている。
その後に始まった平福記念美術館での「奇跡のピアノコンサート」は11年目を数え、さらに仙北市内外で行われたコンサートでもこのピアノは大活躍してきた。
多分、作られて70年は経つと思われる老人ピアノにもかかわらず、大勢のプロの演奏家がこのピアノを目指して集まって来てくれるのがとてもうれしいことである。
廃棄処分を免れた「奇跡のピアノ」は今、命を吹き込まれた恩を返すかのように、人々を呼び寄せ心を結びつける役割を目一杯果たしてくれている。
2021年さくらの季節に
Otoを楽しむ会~古きピアノに樺のアートプロジェクト~ 福田 金作
本田さん出演のコンサート
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